若里! 大昔には犀川と裾花川が自由自在に流れていたこの地には、古墳時代の集落の跡もある。江戸時代に松代藩が裾花川を現在の河道に改修した。若里の地名は、明治9年の小村合併で誕生した若里村に始まる。工学部の前身である長野高等工業学校は、昭和18(1943)年に、現在の場所に出現した。
 さまざまな試練の60年間。いまや還暦を迎えた母校の歩みを、測量用の空中写真で眺めてみたい。
 年代別の空中写真は多くの歴史を物語る。まずは大空から鳥が獲物を狙うように、広い範囲をゆっくりと見回し、注意が向くと同時に写真像の目標を凝視する。そこからさまざまな情報と共に思い出が迫ってくる。拡大鏡を準備すれば楽しみは更に増す。

この空中写真は、国土地理院長の承認を得て、米軍及び同院撮影の空中写真を複製したものである。(承認番号 平16総複、第161号)
 
撮影計画機関:米極東空軍
撮影年:昭和22年
  撮影計画機関:国土交通省国土地理院
撮影年:平成14年

 左の写真は一般に米軍写真と呼ばれているもので、占領軍が昭和22(1947)年に撮影した。この地域の空中写真では最古で貴重なものである。
 米軍写真の右下に犀川と裾花川の合流点の一帯が写る。丹波島橋の近くのT字路で幅広い道路が国道から分岐して鐘紡(現在は日赤)の交差点で止まっている。戦時中に大豆島飛行場へ通ずる道路を拡幅していたが、ここで終戦となり工事は中断された。
 我が母校は鐘紡交差点の左上側に見える。グランドはまだない。母校のさらに左上方向に見える、碁盤状に区切られた道路で囲まれた広大な農地は、長野県農業試験場である。当時は広大な農園の彼方に長野駅や列車の動きを見ることができた。長野駅の一部が写真の左上に写っている。
 河川の荒廃が目立つ。白く写るのが流出土砂。その中を黒く写る水流が蛇行しながら荒れ狂う。
 右の写真は、平成14(2002)年にまったく同じ地域を撮影したものである。左右の写真を見比べていると、学生時代の思い出と共に、話題は泉のように湧き出してくるだろう。キャンパスの変容については次ページ以降で述べることとする。

 55年間の時間差のある左右の写真は、都市化の物凄さを教えてくれる。かつての農地は、すべてが家、家、家だ! 荒れていた河川は改修され運動公園に変身。おまけに人間は、昔の直線堤防を途中から曲げて丹波島橋のたもとにつなぎ、河川の領土を取り上げた。しっぺ返しが無いとは言えない。現在のキャンパスの地名は前河原や上河原だ。昭和24年の裾花川の決壊では、大学と寮は水浸しの被害を受けた。
 裾花川には3本の橋が出現。上流側から裾花橋、長安橋、あやとり橋である。あの広大な農業試験場の農地の北側は、県民文化会館、県立図書館、公園などに、南側は大型マーケットや個人住宅となる。
 写真の右上には長野冬季オリンピックの競技場となったビッグハットが広い道路に面して見える。それを囲んでNHKや大型マーケットが並ぶ。かつての鐘紡の社宅の敷地は日赤に、工場の敷地は広大な駐車場と美術館に変わった。
 以前、写真の左下には、どこまでも続く安茂里の水田地帯が広がっていたものだ。55年間にそのすべてが住宅団地と学校に変わって現在に至っている。
 昭和18年に発足した長野高等工業学校は翌年には長野工業専門学校と改称されて終戦を迎えた。
 昭和21年2月、出火により二階建木造校舎1棟を全焼。国は新入生募集延期の措置に加えて、長野工専廃止を検討する。学生運動が県民大会を呼び起こし、知事や議員が動き、この危機を切り抜けた。

この空中写真は、国土地理院長の承認を得て、米軍及び同院撮影の空中写真を複製したものである。(承認番号 平16総複、第161号)
 
昭和22(1947)年の若里キャンパス
撮影計画機関:米極東空軍
撮影年:昭和22年
 左に示す写真は、前記の米軍写真の一部を拡大したものである。写真の上が北になる。よって以下に示す写真の説明では、写真に向かって右が東、南が下、西が左の方向を意味する。
 開校4年目の姿には、土地は確保したものの整備はこれからという状況が分かる。東側に火災を逃れた1棟の長い校舎の屋根が白く見える。西側には白い屋根の、南側には黒い屋根の校舎が数棟見える。
 当時の敷地の形状は、東西に長い長方形である。グランドの部分はまだ農地である。計画としてはこの長方形の幅を南の道路まで延長して正方形の用地を確保したかったが、地主の猛烈な反対運動を受けて現在のグランドの部分を確保したに止まった。
 昭和24年、国立学校設置法が成立し、国立大学として信州大学が誕生した。これによって、長野工業専門学校は、信州大学工学部としての道を歩む。

昭和46(1971)年の若里キャンパス
撮影計画機関:国土交通省国土地理院
撮影年:昭和46年
 時代は一気に昭和46年にジャンプする。学科の新設や拡充改組でキャンパスには大学の風格が次第に備わってきた。古い木造校舎はRC造りに変貌していく。機械、化学、合成、精密、電気、土木、通信兼本館、共通、図書館などの本建築が建ち並ぶ。
 キャンパス南西部には広々としたグランドが現れた。陸上競技と野球を同時にできる広さだ。グランドの隅には体育館もある。ポプラ並木も大きく育っている。
 キャンパスの北西部にはテニスコートが 2 面。北東部には講堂が現れている。上の昭和22年の写真と比べると大学の発展が手に取るように分かる。
 しかしこの写真を良く見ると、発足当時の懐かしい木造校舎がまだ沢山残っている。南側には物理実験棟と化学実験棟が、東西方向に一直線状に並ぶ。物理実験棟から北側へは長野工業専門学校時代の木造平屋の実験研究棟が何棟も連なる。正門を入った東側にも古い図書館が残る。そして講堂をはさんだ図書館の南にある細長い建物は古い本館である。
 この写真には古い時代から新しい時代へのバトンタッチの状況が良く残されている。

昭和63(1988)年の若里キャンパス
撮影計画機関:国土交通省国土地理院
撮影年:平成63年
 昭和63年。平成への幕開けが近付く。大学も修士過程から博士過程への飛躍が間近である。
 空から見たキャンパスには古い時代の建物の姿はわずかしか探せない。講堂と体育館のほかに小さな平屋が 2 つほど見えるだけだ。
 新設学科の建物が 2 つ増えた。建築工学科が土木棟の西で図書館の南に、情報工学科がキャンパスの北西部に姿を現した。
 図書館の西側に連なっていた数棟の木造平屋の実験研究棟の跡には、広々とした芝生がグレーに、池が黒く写っている。キャンパスの自由空間である。
 さらに建築工学科の建物の南には大きな広場を備えた生協の食堂と売店が出現している。その東側には高い煙突とボイラー室が見える。その東、土木棟の南には計算センターの建物が現れた。
 古い図書館と本館の跡はすべて駐車場に変身して車社会の到来を物語っている。
 建物と共にキャンパス内の環境もようやく学園らしくなったのだ。若里の地に産声を上げてから、この状態に至るまで、実に45年の歳月を経ている。
 周辺の状況も一変した。キャンパス北側にはきれいに整備された広い直線道路が現れた。道路の北側にあった農業試験場の広大な農地はすべて消え去り、大型マーケットと駐車場などに変身した。
 グランドの南の道路を隔てて若里寮や官舎が見える。鐘紡交差点の南側に建ち並んでいた鐘紡従業員の社宅や宿舎の跡地には、旧市街地から赤十字病院が移転した。写真には日赤の駐車場が写っている。

平成14(2002)年の若里キャンパス
撮影計画機関:国土交通省国土地理院
撮影年:平成14年
 平成14年の空中写真からはキャンパスのさらなる発展がうかがえる。上記の生協食堂の西側にあった水田を買収し、白いL字型の棟を建てた。学生のサークル室がすべてここに集まる。東門の近くに南北に長い建物ができた。地域共同研究センターだ。
 キャンパスの北西端にあったテニスコートの場所に、他の建物よりもひときわ大きい正方形の建物が現れた。これが大学の独立法人化に対応するための総合研究棟である。不況の時代をよそ目に、床面積も高さもキャンパス内では最大の建物の工事が急ピッチで進められた。かつてのテニスコートはグランドの体育館の西に追いやられ、その余波を受けて陸上トラック競技は不可能となる。
 独立法人化を目前にしてすべての建物の模様替えが進行中である。各棟の間仕切りは大きく変わり、玄関を始め外壁の模様まで変わりつつある。数年前の卒業生でも、母校を訪れると瞬時は戸惑うであろう。これから新しい大学の時代が始まる。

寄稿/吉澤 孝和(土木32)

ALUMNI ASSOCIATION, FACULTY OF ENGINEERING, SHINSHU UNIVERSITY